Novel
dancing fingers
疲れた。
眠い。
今、一番欲しいものは何かと訊かれたら、迷わず布団と応える。たとえそれが道ばたであっても気にしない。五秒で眠れるに違いない。
俺は肩にずっしりとかかるギグバッグの重さに躰を斜めにさせながら、のたのたと歩いていた。
駅前からアパートまでの道のりが、いつもよりも遠く感じる。夜道を走る車、タクシーなどを横目に見つつ、貧乏人は歩くしかないのだと自分に言い聞かせてため息をついた。
ここのところ、睡眠不足が続いている。でも、それも今日で終わりだ。ついさっき、友人たちと一緒に活動しているバンドのライブの本番が終わったからだ。当分は合わせの練習をしなくて済む。
よし、寝る。
今夜は寝る。
明日はバイトだし、寝る。
そんなことを考えながら、街灯の明かりでも照らし切れていない暗い高架橋の下を通り抜けようとした時、背後から車の走ってくる音も聞いていた。その音が、キキ、と変化して、俺のすぐ横でとまったらしいことを知る。
「ちょっといいかな」
低い男性の声に俺がその車のほうへと目をやると、おっとびっくり、パトカーが停まっている。男性の警官が二人、パトカーから降りてくると俺のことを胡散臭そうに見つめてきた。
「はい、何ですかー」
疲れてあまり頭が働いていないせいか、ぼんやりとした声でそう応えると、若い警官――多分、二十代前半――のほうが眉をひそめた。明らかに何か警戒したような顔つきである。失敬な。
「ちょっと荷物を見せてもらってもいいかな」
もう一人の警官がそう言った。こっちは三十代後半くらいだろうか、穏やかな顔つきをしている。しかし、その目だけは鋭かった。
「いいっすよー」
俺は肩に背負っていたギグバッグを地面に下ろす。そして、右手に提げていた銀色のエフェクターケースも。
「壁に手をつきますかー?」
俺は横にあった冷たいコンクリートの壁に向かって両手を上げて見せ、さらに映画で見たように両足を開いて立とうとしたら、「それはしなくていいから」と慌てたような声が飛んできた。
そうなのか。
てっきり武器を持ってるかどうかチェックされるのかと思ったぞ、この展開。
年配の警官はわずかに苦笑を漏らしつつ、こう続けた。
「荷物を見せてくれればいいから」
「持ち物検査ですか」
やがて、自分からギグバッグのジッパーを開け、中身を警官二人に見せた。辺りは薄暗かったけれども、かろうじて街灯の明かりが俺の愛用のギターを照らし出してくれている。
ギブソンのフライングV。
ペグに巻き付けたギター弦は、巻いても余計な部分を切り落としていなかったため、びょんびょんと伸びて時々人間の肌を突き刺す。ちょっとした凶器だ。
「ギターだね。そっちのケースは?」
年配の警官がすぐにエフェクターケースのほうへと視線を投げた。
中身が転がり落ちないように気をつけながら蓋を開けると、好んで使っているコンパクトエフェクター――手のひらサイズの小さな箱が三つ、それからワウペダル――ギターの音色を変化させるペダルが現れた。
「何ですか、これ」
若い警官が年配の警官にそう小さく訊ね、年配の警官は俺に視線を投げる。
「BOSSというメーカーのエフェクターで」
と、俺が説明を始めようとすると、「いや、それはいいから」と年配の警官が言う。何だよ、それが知りたいんじゃないのか。俺がエフェクターケースの中に目をやると、ちょうどその時、若い警官がケースの中に入っていた銀色の箱に気がついいて声を上げた。
「村上さん、これじゃないですかね!」
若い警官は、目的の物を見つけたぞ、と言わんばかりに目を輝かせている。
「うん、この箱の中には何が入っているのかな?」
年配の男性が俺に訊いてきたので、俺はその銀色の箱をぱかりと開けて中身を彼らに見せた。
「ピックですー」
ギター弦を弾く、小さな三角片。最近気に入っているメタルピックが光っている。
ああ、そうか。俺は急に気がつく。ドラッグか何か持っているように思われたんだな、と。
「うーん、まあ、何て言うか、ギタリストなんだね?」
やがて、年配の男性は笑い出した。
「どこからどう見てもギタリストじゃないですかね」
俺が肩をすくめると、相手は申し訳なさそうに軽く頭を下げる。
「すまんね、こんな夜中だし、そのね、不審者には声をかけるようにしてるんだよ」
「いいですよ。慣れてますんで」
俺がそう言って笑うと、相手はわずかに首を傾げて見せた。
「髪の毛、切ったほうがいいんじゃないのかな」
「似合わないですか」
「そういうんじゃなく……いや、そうかな」
失敬だな。
俺は腰まで伸びたぼさぼさの髪の毛に触れた。洗い立てだったら意外と綺麗なのだ。今は生活苦に負けた感じに乱れていようとも。
――そういう問題じゃないかな。
その場を離れるパトカーを見送って、俺はため息をついた。
見かけで判断されることには慣れている。
男なのに髪の毛をこれだけ伸ばしていて、一重だからもともと悪い目つきがさらに悪く見えて、黒い革のジャンパーに革のパンツなんて格好をしていれば、何か悪いことでもしてるんじゃないかと思われても仕方ない。それに、人相の悪さには自他共に認めるところだ。
でも、人は見かけによらないっていうだろ?
――うん、そういう意味とも違うか。
「また声をかけられたんかよ」
次の日、俺はバイト先で警官に呼び止められたことをバイト仲間に話していた。
「警官にはモテるらしいぜ、俺」
「うわ、いらねえ」
俺のバイト先はいわゆるジャズバーというヤツだ。この店は昼間はカフェ、夜は生演奏と酒を楽しむ場所として経営されている。
俺がバイトとして入っているのは夜のほうで、店内はいつでも薄暗い。それほど広いとはいえない店内だが、それなりに客は入っていた。でも多分、こういう生バンドが出演する店というのは、最近少ないんだろうな、とも思っている。客としても、入りにくい雰囲気は少なからずあるのかもしれない。だから、常連だけが入り浸ることになるのかも。
「髪の毛、マジで切ったほうがいいって。短いほうが似合うんじゃね?」
「それは、切ったら女の子にモテるという意味でよろしいか」
「その答えを俺に求めるな」
俺と今、馬鹿な話をしているのはベーシストの男性で小林圭一という。年齢が近いせいか、小林とはよくつるむことが多い。小林は俺からわざとらしく目をそらしつつ、店内を見回した。
ちょうど、俺たちは演奏が終わって一息ついているところで、店の端っこのほうでテーブルについてウーロン茶を飲んでいるところだった。そして、そのテーブルには俺たちと一緒にいるのが似合わない女性が一人。
「何回目ですか?」
彼女――新荘亜香李は穏やかに微笑みながら俺を見つめている。彼女は有名な音大に通う女性で、ピアニストとしてここでバイトをしている。とにかく、美女という形容がよく似合う。ストレートの長い髪の毛は、やっぱり誰が見ても俺なんかより彼女のほうが綺麗だし似合う。
「うーん、三回目かな。警察に声をかけられるのは」
俺が頭を掻きながら応えると、彼女は「滅多に経験しないことですよね」と首を傾げる。ま、彼女ならこの先も経験しないことだろうな。
俺はぼんやりとそんなことを考えつつ、椅子の脇に置いたままだったフライングVを引き寄せた。そのまま、膝の上に抱え込んで暇つぶしにギターの練習を始める。
エレキギターというのは、アンプにつながなければ音はほとんどしない。だから、こうやって気軽に練習できるのがありがたい。暇さえあれば、スケールの練習。ひたすら音階を早く正確に弾きこなす。早弾きだったら、結構自信があるのだ。目標、それは一日一時間、スケールの練習。
「人間って、見かけで判断することが多いですよね」
亜香李が少しだけ眉根を寄せて、難しそうな顔をする。美人というのは、こういう顔も似合うんだな、と思った。俺がそんな顔をしたら、警察にまた声をかけられてしまう。
「ま、仕方ないだろ。人間、見た目が重要だよ」
「そうですか? 関係ないですよ、見かけなんか。見かけでそうやって判断されるのってイヤじゃないですか」
亜香李が真剣な目つきでそう言う。
「俺は見かけで判断されることには慣れてるからな、あまり気にしないや」
俺が肩をすくめてそう言った時、その場に見慣れた顔が現れた。亜香李と同じ音大に通う男で、右手にはヴァイオリンケースを提げている。またこいつが女性にモテそうな顔だちをしているのだ。
「よう、サントリーホール」
俺が片手を上げて彼――生駒千明に声をかけると、生駒は「その呼びかたは勘弁してくださいよー」と笑った。
「サントリーホール? サントリー? ビール?」
小林が首を傾げているのを見て、俺は首を振った。
「こいつ、年末に大学の演奏会でサントリーホールで演奏するんだってよ。ソリストだってソリスト。くそ生意気な」
「生意気と言われてもね。実力ですよ実力」
生駒はふふん、と笑って亜香李の横の椅子に座った。自信満々、といった様子でそう言ったものの、すぐにため息をこぼれる。
「練習しなきゃ……」
「しろよ。俺との曲合わせも考えとけよ」
「ああ……そっちもあるんだ……」
生駒が頭を抱える。はっはっは、手抜きは許さん。
「曲合わせ?」
亜香李が驚いたように言って、俺は頷いた。
「そう。クラシックの曲をハードロック風にアレンジして、今度ライブをやろうって話になってる。ギターにヴァイオリン、悪くない組み合わせだろ? また、こいつが生意気にも何でも上手いんだ。この間、ちょっと冗談でギターを持たせたら、簡単に弾きやがる。ヴァイオリンだけにしとけってんだ」
「簡単じゃないですよ」
生駒が慌てて首を振った。「何だか訳の解らないビデオを見せられて、いきなり一緒にやろうって言われて、もう大変だったんですから」
「お前、元気だねえ」
小林がため息をこぼしながら俺に言った。「お前、ここのバイト以外にもバンドを組んでるんだっけ。そっちに生駒が参加すんの?」
「そう。サントリーホールに化粧もさせる。ビジュアル系ロックバンドのできあがりってわけだ」
「うわ、見たくねえ」
「僕だってやりたくないですよ。でもいつの間にか……押しが強いんだ、この人。っていうか、その呼びかたはやめて欲しいって何度」
「ま、どうでもいいんだけどな」
俺はあっさりとそう言葉を投げ、またスケールの練習を再開させる。だんだん眠くなってきたぞ。頭が働かん。
「亜香李さんは今、何の曲を練習してるんですか」
やがて、生駒がそう質問しているのが聞こえる。
すると、亜香李は我に返ったように「え」と声を漏らしてから、ぎこちなく笑った。
「今、大学ではラ・カンパネラを練習してます。ちょっと死にそう……」
「ああ、聴きたいですね。ここでは演奏しないんですか」
ふと顔を上げて二人のほうに目をやると、美男美女の光景ってやつが目に入る。あれ、こいつらって付き合ってんだっけ? 会話の感じからすると違うか?
「トチってもいいなら弾きますけどね。でも、リストの曲は難しいですよ、本当」
「どんな曲だっけ」
俺が興味を惹かれてそう訊くと、亜香李がじっと俺を見つめてきた。うん、何だ?
「弾きましょうか。ちょっとお客さんも引いたことだし」
気がつけば、店の中には従業員くらいしか見あたらなかった。いや、一番奥のテーブルにカップルが一組いる。
「聴きたいね」
小林がそう言って、俺も頷いて見せると、亜香李が「よっしゃ! いっちょやるか!」と立ち上がる。清楚然とした彼女がそんな口調で話すなんて、最初に会った時には予想もしなかった。おとなしく座っている時など、どこかのお嬢様といった感じなのにな。
彼女も口調には気をつけているらしく、だいたいはその風貌に似合うような綺麗な言葉を選んでいるみたいなのだが、何かの弾みでどこかの親父みたいな台詞が飛び出てくると、つい笑ってしまう。親近感がわくとも言う。
彼女は店のカウンターの脇のステージにあるグランドピアノに近寄り、カウンターの中にいた店長に声をかけた。演奏してもいいかどうか、訊いているらしい。そして、どうやら店長から許しをもらったらしく、彼女はピアノの椅子に腰をかけた。
鍵盤の上で踊る指。
彼女の演奏は、しなやかだと思う。
俺はピアノなんぞ弾けないが、こうして演奏を聴いていると、ピアノもいいなあ、なんて思ったりする。
ラ・カンパネラという曲は、有名だったらしい。クラシック曲に疎い俺でも、聴いたことのある旋律だった。
そして、相変わらず彼女の演奏は凄いな、とも思った。うーん、生駒だけじゃなくて彼女もバンドに誘いたくなったぞ。
途中、何度かミスタッチがあったのが解った。まだ練習中なんだろうから、それは仕方ない。
と、思っていたのだが。
「リストって手が大きいんですよ」
亜香李がテーブルに戻ってきた時、俺たちは拍手しながら彼女を迎えた。しかし、亜香李は手のひらを軽くひらひらと振りながら続ける。
「わたしは、そんなに手が大きいわけじゃないから、リストの曲を演奏するのが難しい。ミスタッチも増えるってわけですよコンチクショウ」
「まあまあ」
生駒が明るく笑いながらなだめるように口を開いた。「気にならない程度でしたよ。気にしない気にしない」
「手の大きな人が羨ましいな」
彼女はそう言って、俺たちのそれぞれの手のひらを見つめた。
考えてみれば、ここにいるのは皆演奏者。ベーシスト小林の手も、ヴァイオリニスト生駒の手も、そして俺の手も、結構でかい。
「いいなあ」
本当に、心の底から羨ましそうに言ったその口調があまりにも……何というか、可愛かったので、皆彼女を慰めようと口を開きかけた。しかし、彼女は自分の手のひらを見下ろして、唸るように続ける。
「大学の先生が、『手術で切ったら?』って。で、手の股を切って手を広げたらどうだって」
「いていていて」
小林がぶるぶると首を振った。「ピアニストってそこまですんの? こえー」
「する人もいますよ。だって、弾けなくちゃ意味ないでしょう?」
「そうかね」
俺はふと、手を伸ばして彼女の手を取った。俺の手のひらと比べてみると、確かに小さい。男と女なんだから、大きさの差は歴然。
「でも、綺麗な手だな。切るのはもったいない」
素直にそう思って顔を上げると、亜香李が少し驚いたように目を見開いて、そしてわずかに頬を染めていた。んん? 何だ?
「槇さんの手も綺麗ですよ。ギターを弾いている時、つい……その、見てしまいます」
照れたように目を伏せた亜香李は、そんなことを言ってゆっくりと俺から手を引いた。
「ああ、ごめんごめん」
俺はそこで我に返った。手なんか触ってたらセクハラになってしまう。訴えられたらどうする。慌てて彼女に謝ってから、頭を掻いた。
「あの」
やがて、彼女が俺を真っ正面から見つめてきた。
「ん?」
俺が首を傾げていると、彼女は小さく言った。
「見かけとか、その、重要じゃないと思うんです」
「んん?」
何の話だっけ?
さらに首を傾げていると、隣で小林が「鈍いね」と呟いているのが聞こえた。
END